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「晴れた日に永遠が見える」第二話











「雨も降らない場所」




雨も降らない場所、と彼女は言った。
え、と私は確か聞き返した。
窓の外では透明な雫が天と地を繋いでいて、大学三年生になってから住み始めた彼女の小さなアパートは、それに包まれているようだった。
世界は耳鳴りがするほどに静まり返っていて、それなのに潮騒のような雨音だけが離れない。
私とこなたは空っぽになった部屋に向き合って座っていた。
荷物は昨日の内にすべて運び出してしまったらしい。引越しの手伝いで来たはずの私は、彼女の部屋に最後に残されたインスタントコーヒーと二つのマグカップに持て成された。
むき出しのフローリングは冷たく、春になったばかりの東京は寒く、この部屋で温度を持っているのは私とこなたの手の中にあるコーヒーだけのような気がした。
実家に帰る、と聞いたのは昨日の電話の中でだった。
久しぶりにディスプレイに映し出された、馴染みの深いこなたの電話番号。言葉を交わさなくなって数ヶ月が過ぎていたから、通話のボタンを押すことは少しの勇気が必要だった。
久しぶりに顔を合わせたこなたは、私の顔を見ると相好を崩して笑った。それは高校時代のように無邪気なものでもなくて、大学のときのように楽しいものでもなくて……胸が詰まった。
私とこなたは向き合った別々の壁を背にして座っていた。会話するには少し遠い距離。しかしまるで何かのインスタレーションのように、はっきりと私たちは配置されていた。
――雨も降らないような場所、が好きだって。
こなたは先ほどの私の問いに答えるように、音もなくにこりと微笑みながら言った。
それは誰が言った言葉なのか。思い当たるまで数秒の時間が必要だった。しかし、思い当たるまで、数秒しかかからなかった。主語のない、こなたの言葉。
――何それ、砂漠?
雨の降らない場所、と聞いて私が真っ先に思いついて、口をついて出たのはそこだった。
日照りがカンカンで、何もない、砂しかない不毛の土地。
こなたは笑った。
――違うよ。多分言いたかったのは、もっと概念的な場所。
そう言って、窓の外、遠くを見た。概念的、なんて言葉を使うようになったのは一体誰の影響だろう。
――雨が降らない場所なんて、砂漠か、南極とか北極くらいのものじゃない。
そんな感傷的な言葉が許せなくて、私は言った。感傷的な言葉が許せない。感傷的な言葉が許せない――私がそんな偏狭になってしまうのは、一体誰が悪かったのだろう。私はただ現実的なことを言った。それを今言うことが、現実的でないと知っていても。
――雨がないと困るわ。
――うん、わかってたと思うよ。
こなたもわかっていた。私のことをわかっていた。私がわざと現実的なことを言って、本質的なことから、矛先をずらしていることを。そしてその上で、それを無視して、言葉を紡いだ。
――それでも、雨も降らない場所を願うのは、無駄なこと?
答えられなかった。
二十二歳の梅雨。縋るようなこなたの瞳。
そして、窓の外の、世界の、雨、雨、雨――。
こなたの方が辛いはずなのはわかっていた。それでも、二十二歳の私はそれらすべてを上手く受け入れることが出来ずにいた。私たちに降りかかった悲しい出来事も、悲しいことを起こした張本人も、誰よりも悲しいことを受け止めなければいけなくなったこなたも――。
雨も降らない場所

でも、本当は、受け入れたかったんだと思う。
誰よりも、私はその雨を受け入れたかった。そして、その雨の下で、隣人と手を繋いで、大きな空を見上げたかった。
でも結局のところ、こなたも、雨の降らない場所を願っていた。
だから、私たちは離れたんだと思う。
離れてしまったのだ――。





かなたとお昼を食べ終わると、私はリビングの床に横になった。
私の仕事部屋と並んだリビングは、やはり南向きに窓が大きくとられていて、晴れた日には日差しが明るくリビングのフローリングを照らした。
仕事で少し疲れていたのもある。――来るはずだった客人が遅刻しているのもある。
洗い物を終えた私は、その真新しい日光の下で横になることにした。冷たい床に横になり、大きく息を吐く。白いカーテンの向こうから差し込む、マンガニーズブルーに目を細める。
私が横になると、かなたはブロックを一抱え持ってきて、私の側でごろんと横になった。
すると殆ど反射的に私は、身体をかなたの方を向けて、肘をつき、身体の左側を下にして、かなたを見守るような姿勢になった。
こういうことが自然になってきていると感じる度、私は自分が『親』になってきているんだな、と思う。
それは心地よい実感だった。少なくとも私にとっては、洗い立ての服に袖を通すときのような、嬉しさを伴うような実感だった。仕事のことばかり考えていた、二十代の前半からは考えられないことだ。
かち、かち、とかなたがブロックをいじる音が聞こえる。この小さな生き物が一生懸命に何かをするたびに、今まで感じたこともないような優しい気持ちになれる。
――雨も降らない場所。
こなたたちが求めたのは、どんな場所だったのだろう。私には想像もつかない。でもかなたがこれから生きていく場所は、出来れば悲しい雨のあまり降らない場所であればいいな、と思う。
かなたの髪を何となく撫でる。ふわふわと真新しい髪の毛。まるで今日の日差しのように、それは柔らかで温かい感触がした。
かなたは少しだけ顔を上げて私の顔を見て、それからまた自分の作業に戻った。
網戸の向こうから香る、五月の風の匂い。
車の通る音。同じマンションのどこかの部屋から聞こえてくるワイドショーの声。それに耳を澄ませて、私は目を閉じる。明るい日差しは瞼を閉じても、私の眼に届いた。
或いは、こんな日だったら。
こなたと言葉を交わした日が、あんな憂鬱な雨の日ではなくて、初夏の期待が青空に渡るような、今日の日のようだったら。もしかしたら、何かが違っていたのだろうか。
時々考える。私はこなたの側を離れることはなくて、こなたも私の側を離れることもなかったなら。
それから先訪れるいろいろなことを、同じ雨を受けるように享受することが出来たなら――。
しかしそれはやはり幻想なのだろう。本を読まなくても、テレビをつけなくても、賢い人から聞かされなくても、私たちは知っている。『過去は変えられない』。
あの頃の、こなたの若い声が聞こえる。
――それでも、雨も降らない場所を願うのは、無駄なこと?
私は眼を開けた。かなたの小さい後ろ頭が眼に映る。息を吸い込むと、子供の匂いがした。それに私はとても安堵する。子供の匂いに安堵するようになったのは、一体いつからだろう。私は眼を擦った。
するとかなたが仰向けになって、くあ、と欠伸をした。
ぼんやりとしていたら少し眠くなってきたらしい。ブロックをいじる手が緩やかに散漫になっていきてくる。お腹がいっぱいになって、こんな温かい日差しを一緒に浴びていればそれは当然かもしれない。私も段々と眠くなってきた。私の場合は睡眠不足もあるけれど。
うとうととしかけたとき、チャイムの音が鳴った。
それは鳴らしているだろう本人に似て、落ち着きなく、少しの間に何度も何度も鳴らされた。ボタンを連打しているのだろう。
「ああ、もう……全然変わらないなあいつは」
ぼんやりしているかなたを撫でて、私は訪問客を迎えるために起き上がった。





illustration by マシマ










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